2006年07月09日

昨日の続き。三門峡。

今晩は。

昨日の続きです。 


今回、三門峡に行ってきたのですが、

ここには、 戦後、人民中国時代に、巨大なダムが建設されました。
(これは、黄河にかかるもので、現在、造っている長江のダムは、三峡ダム)

この新中国の大事業の為に、全国から集められた技術者や作業員が集まって
できた町が、三門峡市です。

ちょうど、黄河がゴビ砂漠方面から南下し、 東に向きを変えるところにあります。

よって、この三門峡市は、 河南・山西・陝西の三つの省が、交わるところです。

ここに、歴史的には、有名な二つの、名所があります。

一つは、 函谷関。 あの、孟嘗君の故事で有名です。
      先の戦争では、日本軍は、ここから先には、いけませんでした。
      
      また、老子が、晩年に道徳教を、書いたところだといいます。
      今、道教の聖地になっていました。


もう一つは、 空相寺 です。 これが、達磨大師の最期の地です。

     その時期は536年で、北魏の時ですが、 
     日本に仏教が伝来したと伝えられるのが、欽明天皇時代の538年。

     これは、 百済の聖明王から、となっています。

     さて、この北魏、朝鮮半島の百済を攻めた事があります。
     そのとき、この空相寺にいた僧侶たちは、どう動いたのでしょう?

 今回、実際に、この二箇所に行ってみて、妙に、自分自身の問題と
重なってくる感じがしています。

 私の生まれた長野県中野市には、町の真ん中に、南照寺という、
寺がありますが、ここには北魏様式の仏像が、収められているのです。

 この寺は、河東善光寺とも呼ばれ、寺伝によれば、この仏像は、北側から
信濃川を遡って、高社山南面の、この中野の地まで、運ばれたのです。

 一方、国宝である長野善光寺は、奈良の明日香村の豊浦寺の池に、
物部尾輿が投げ捨てたものを、拾い上げ、天竜川沿いに北上し、
現在の地に付きました。 その途中に、伊那の元善光寺があります。

 長野善光寺の大本願を造ったのは、聖徳太子の三人いる后の中の、
蘇我馬子の娘、刀自古郎女だと伝えられていますが、 彼女が太子を偲んで、
その仏像を、なぜ、わざわざ、長野の地まで、運んだのでしょうか?

 また、この中野市の南照寺の仏像に付いては、 明治維新以後、
硬く、言及が避けられ、公開が憚られていたようです。 

 きっと、日本書紀による皇国史観を、大きく崩すことになるからでしょう。 

 また、日本の建国の真実について言えば、どうしても、消せないものが、
信州にもあったようで、 日本書紀には、天武天皇が、都を、
現在の鬼無里村に移そうと考えていた、記載もありますから、
天武・持統と、信州がどんな関係があるのか、まだまだ、なぞです。

 しかし、仏像を介してみますと、長野の善光寺平と、中国河南省三門峡まで
繋がってしまうのです。

 中野市には平安期から多くの寺があり、ここには、夢想疎石が修行した常楽寺
もあれば、後に、京都の妙心寺を開いた、無相大師が、ここで生誕しています。

 その妙心寺が、この三門峡にある、空相寺の復活に、大いに関わっているのです。

奇縁です。

 ちなみに、この三門峡の農民には、 キリスト教徒が多のも特徴です。

もしかして、ネストリウス派のものか?

 これは、次回、チェックしてみます。

ちなみに、クリスチャン将軍の馮玉祥が基盤としていたのも、この付近でした。

     
  

Posted by Arai at 2006年07月09日 23:45
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